浄土真宗本願寺 福岡教区

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みんなの法話

赤星大道 本願寺派布教使 福岡教区 東筑組 浄蓮寺

娘が2歳になる頃、家族でテーマパークに出かけたことがあります。娘は初めて訪れたその非日常空間が楽しかったのでしょう。笑顔いっぱいで走りまわっていました。ただ大勢の人がいる状況で、大人の足元くらいしかない娘の姿はとても危なく見え、私は娘の手をつなごうとしました。しかし娘はそれを嫌がり一人で歩こうとします。結局私は娘の真後ろを、娘をガードするように両手を広げ、かがんだ状態で歩きました。すると案の定、なにかにつまずいたのかバランスを崩したのです。私はそのまま娘を抱きかかえました。娘は一瞬驚いた表情をしましたが、すぐに笑顔になって再び一人で歩き始めました。

 

私たちも日々人生を歩んでいく中で、目の前の生活や楽しみに目を奪われて自分の危うさに気がつけていないのかもしれません。自分の命がいつ終わるかわからないということを理解はしていますが、そんなことには全く目を向けず日々を生活しています。そして、何かの拍子に「死んだらどうなるのか」といった自分のいのちの問題や、人生の意味への問いが目の前に現れて苦しみ悩んでいく私たちがいます。

 

阿弥陀さまはそのような私の姿をご覧になり、いてもたってもいられずに立ち上がり、いつでも、どこでも私とご一緒くださる仏さまなのです。そのご一緒くださっている姿が、「南無阿弥陀仏」というお念仏なのです。阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」という声のすがた、言葉の仏さまとなってこの私にご一緒くださいます。私が「助けてほしい」とお願いしたから動いてくださる仏さまではなく、私がお念仏喜ぶ前から、私の人生が順調だった時も逆境にあった時も、何があっても変わらず常にご一緒くださっていた仏さまだったのです。

 

「いつでも、どこでも」ということは、「今、ここ」にご一緒くださるということです。つまり、私が「南無阿弥陀仏」とお念仏申す中に、今この瞬間、この私に阿弥陀さまがご一緒くださっているのです。