「ミリンダ王の問い」(2026年6月)
鷹取直道 本願寺派布教使 福岡教区 鞍手組 明元寺
『那先比丘経(なせんびくきょう)』という仏典があります。日本語訳では『ミリンダ王の問い』と訳されます。「経」と名付けられていますが、これは釈尊が示された説法ではなく、実在したギリシャの王様であるミリンダ王とインドの僧侶・ナーガセーナとの問答による対談を記録した書物です。ですので、正確には「経」ではありません。しかしその対談の内容は当時のギリシャ思想や仏教思想を丁寧に比較・解説していて、歴史的にも重要な書物とされています。
この書物ではたくさんの問答が行われますが、その中に「念仏によるすくい」という一段があります。短い問答ではありますが、そのやりとりを要約すると以下のようになります。
まずミリンダ王は尊者ナーガセーナに
「仏教では『たとえ百年悪業を重ねようとも、臨終に一たび仏を念ずれば、救われる』と言いますが、私はこれを信じません。」と主張します。
すると尊者ナーガセーナは、仏教者の立場から次のように答えます。
「大王よ、小さい石でもそのままで水に浮かぶでしょうか。いや、必ず沈むでしょう。」
「では何台もの車に乗るほどの大量の石でも、船に載せられたならばどうでしょうか。水の上に浮かぶのではないでしょうか。」
「それと同じように、念仏の功徳とは、船のごとく見るべきであります。」
その言葉を聞き、ミリンダ王は「その通りであります。」と頷くのでした。
ここでの「沈む小石」とは自身の悪業、「船」とは念仏の功徳です。
この二つの関係を通して阿弥陀様のご本願を味わってみますと、様々な罪・悪業を重ねながら生きている凡夫、それが私です。そのすがたは水に沈み続ける石のように、決して自ら浮かび上がることはありません。しかし、私の重たい悪業よりももっと大きなご本願の功徳という浮力でもって、阿弥陀様は今私を包み込んで下さっています。まさに船に載せられた石です。
このように水に沈むはずの石が、石の身のままで浮かんでいられるのは私の手柄ではありません。全て船と喩えられる阿弥陀様のご本願のはたらきです。しかもこの船は、必ず私をお浄土へ生まれさせ仏と成らせるぞと運んで下さる力強い船なのです。
私の人生は、今まさにお浄土へ向かっている船旅の道中です。お念仏申しながら、共々にこの船旅を慶ばせていただきましょう。