「浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし」(2026年8月)
鬼倉龍英 本願寺派布教使 早良組 淨覚寺
浄土三部経の一つ『仏説阿弥陀経』は、「一代結経(いちだいけっきょう)」とも呼ばれ、お釈迦さまのご生涯で伝えたかった結びの教えとして、深く尊ばれてきました。
この経典には、他の多くの経典とは異なる、とてもユニークな特徴があります。それは、誰からも問われていないのに、お釈迦さまが自ら進んで語り始められた「無問自説(むもんじせつ)の経」である、という点です。
そして、その大切な語りかけの相手に選ばれたのが、お釈迦さまとほぼ同年代であり、弟子の中で「智慧第一」と讃えられ、長年ともに歩んできた舎利弗(しゃりほつ)尊者でした。
当時、舎利弗尊者もまた老境を迎え、自らの人生の終わり(故郷へ帰っての入滅)を控えておられました。激動の時代をともに歩み、教団を支え合ってきた二人は、いわば「戦友」のような深い絆で結ばれていたことでしょう。そんなかけがえのない友に向かって、お釈迦さまは優しく語りかけます。
「ここから西の方へ十万億もの仏がたの国々を過ぎたところに、極楽と名づけられる世界がある。そこには阿弥陀仏と申しあげる仏がおられて、今現に教えを説いておいでになる」(『浄土三部経(現代語版)』218頁)
「舎利弗よ、このようなありさまを聞いたなら、ぜひともその国に生れたいと願うがよい。そのわけは、これらのすぐれた聖者たちと、ともに同じところに集うことができるからである」(『浄土三部経(現代語版)』223頁)
これを聴いたとき、舎利弗尊者の心には、一体どのような思いが広がっていたのでしょうか。
お経を読み解くと、お釈迦さまは何度も「舎利弗よ、舎利弗よ」と呼びかけますが、舎利弗尊者は一言も発さず、ただ静かに耳を傾けています。この心地よい沈黙のなかに、尊者の深い「安堵」を感じずにはいられません。
これまで「智慧の第一人者」として、鋭い知性と厳しい修行で道を切り開いてきた舎利弗尊者です。しかし人生の終盤、自らの死がそう遠くないことを自覚し、また長年慕い続けた師との別れていかねばならない現実を目の当たりにされていたことでしょう。
そのなかで、極楽浄土の素晴らしい荘厳の様子や、阿弥陀如来の無量の功徳を聞き、「人間の計らいをはるかに超えて、すべてを包み込んでくれる大いなる世界が待っている」という教えに出あわれた。そのとき、張り詰めていた肩の荷が、すっと下りるような感覚を味わわれたのではないでしょうか。
肉体的な別れは近づいていても、極楽浄土という一つの場所でまた必ず会える「倶会一処(くえいっしょ)」。お釈迦さまの言葉の裏にある確かな約束に、舎利弗尊者は深く、静かに頷かれていたことでしょう。
のちに親鸞聖人は仰せになりました。
「浄土にて かならず かならず まちまゐらせ候ふべし」
(『親鸞聖人御消息』註釈版聖典785頁)
阿弥陀如来によって建立された極楽浄土こそ、先立って往かれた大切な方々が私を待っておられる処であり、煩悩から離れられない「凡夫」をも、本願力によって漏らさず救い取ってくださる、いのちの往き先であります。
別れの寂しさは尽きることがありません。しかし、阿弥陀さまのご本願に出あい、「浄土で待っている」という呼びかけを今、聞かせていただくことで、私たちは再び相いまみえる世界への道を、喜びをもって歩ませていただけるのです。