淨光寺三門北組
- 合同墓
- 納骨堂
- 駐車場
当山は三門北組寺院でありますが、元中通り組の一寺院としても所属しています。この中通り組は、筑後地区特産の櫨の実を使った蝋燭を本山に献上していた本願寺と直轄の講社団体です。文政元(1818)年11月6日登録と記録されています。この2組に所属しています。
当山は、天正2年(1574)年三潴郡荒木村(現久留米市荒木町)に建立す。先祖は天台宗に属す。慶長9(1604)年に善慶は浄土真宗に帰依し真宗第一世となり本願寺寺院を創建された。その後55年を経たころ明暦年間に旧久留米藩一円は本願寺派は大谷派に転派せよと藩主の命により、第4代了賀は一旦転派する。しかし本願寺派への意志は強くご本尊と大鏧を抱え脱藩する。その後途方に暮れていたところに柳川藩主の忠茂公の奉許を得て現在の地の一宇を建立する。宝暦10(1760)年、上棚町森田清助氏より草鞋作りで貯えた懇志により梵鐘を奉納される。しかし、大砲製造のため梵鐘を鋳る作業をするが爆破事故が起こる多くの人が仏罰と恐れ、金属類を献じて梵鐘を製造する。
この地に創立以来、寺子屋的存在として地方教育に尽くしてきた。第11代観達は多くの衆望を集め文久3(1863)年に本堂を新たに改築し寺院を中興した。第12代法忍も向学心厚く京都仏教大学(現龍谷大学)で学び帰省後、地方の僧俗の師と仰がれるなど、尽力を注がれた。明治政府が定めた学制発布により、小学校の創立にあたる明治8(1875)年まで本堂と庫裡を仮校舎として使用するよう建言した。
教育を通し地域に寺院として浸透していく中、昭和6(1931)年に楼門を建立するも第2次世界大戦時、武器製造の金属不足により応召された。戦後楼門に鐘のないことを嘆き第14代義之は広く浄財を募りて、昭和45(1970)年10月再び地域に鐘の音が響くようになった。
150年を過ぎ幾多の災害に耐えた本堂も老朽化により、平成15(2003)年第15代憲之の時、本堂新築さらに会館新築を迎える。その後も楼門の新築・納骨堂新築と落慶法要を迎える。平成29(2017)年に第16代住職観之就任。現在に至る。
当山は、天正2年(1574)年三潴郡荒木村(現久留米市荒木町)に建立す。先祖は天台宗に属す。慶長9(1604)年に善慶は浄土真宗に帰依し真宗第一世となり本願寺寺院を創建された。その後55年を経たころ明暦年間に旧久留米藩一円は本願寺派は大谷派に転派せよと藩主の命により、第4代了賀は一旦転派する。しかし本願寺派への意志は強くご本尊と大鏧を抱え脱藩する。その後途方に暮れていたところに柳川藩主の忠茂公の奉許を得て現在の地の一宇を建立する。宝暦10(1760)年、上棚町森田清助氏より草鞋作りで貯えた懇志により梵鐘を奉納される。しかし、大砲製造のため梵鐘を鋳る作業をするが爆破事故が起こる多くの人が仏罰と恐れ、金属類を献じて梵鐘を製造する。
この地に創立以来、寺子屋的存在として地方教育に尽くしてきた。第11代観達は多くの衆望を集め文久3(1863)年に本堂を新たに改築し寺院を中興した。第12代法忍も向学心厚く京都仏教大学(現龍谷大学)で学び帰省後、地方の僧俗の師と仰がれるなど、尽力を注がれた。明治政府が定めた学制発布により、小学校の創立にあたる明治8(1875)年まで本堂と庫裡を仮校舎として使用するよう建言した。
教育を通し地域に寺院として浸透していく中、昭和6(1931)年に楼門を建立するも第2次世界大戦時、武器製造の金属不足により応召された。戦後楼門に鐘のないことを嘆き第14代義之は広く浄財を募りて、昭和45(1970)年10月再び地域に鐘の音が響くようになった。
150年を過ぎ幾多の災害に耐えた本堂も老朽化により、平成15(2003)年第15代憲之の時、本堂新築さらに会館新築を迎える。その後も楼門の新築・納骨堂新築と落慶法要を迎える。平成29(2017)年に第16代住職観之就任。現在に至る。
住所 |
〒839-0244 |
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アクセス情報 |
JR南瀬高駅徒歩約50分 |
TEL |
0944−76−4647 |
FAX |
0944−76−4696 |
納骨堂 |
有り |
墓地 |
無し |
合同墓(合葬墓) |
有り |
駐車場 |
有り |
バリアフリー対応 |
無し |
主な行事や活動 |
日々月忌参りとしてお勤めさせていただいています。 |