西方寺柳川組
- 合同墓
- 納骨堂
- 墓地
- 駐車場
西方寺は天正十六(1588)年に創建されました。関ヶ原の戦いの一二年前になります。
以来、この地で浄土真宗のみ教えを護ってきました。
現在の西方寺の本堂は、江戸時代の後期文政年間に建てられたものです。今から百八十年ほど前になります。当時の柳河は掘り割りの水も豊かで、たいそう美しい町でなかったかと思います。
西方寺の本堂は、よく見ると、向拝(ごはい)口をはじめ、柱の上部や梁(はり)など至る所に、細かな彫刻が施されています。どうやらこれは、柳河藩のお寺の特色のようです。
柳川市史編集委員会『柳川市の社寺建築Ⅰ・Ⅱ』という本があります。その中で、西方寺に関する記述で、「向拝(ごはい)周辺は柳河藩の特色ともいうべく大層に彫刻が多くて華やかさが際立つ。」とあります。向拝(ごはい)とは、本堂正面の入り口のことです。向拝の獅子飾り・龍飾りは、どこでも見かけることができますが、柳河藩のお寺は、それがたいそう華やかなもののようです。
この本には、さらに「向拝(ごはい)上端周辺彫刻は、江戸時代後期の柳河藩の彫刻技術の粋をあつめたものであろう。」とあります。本堂建築の時期も、江戸の技術が円熟した頃なのでしょう。
向拝以外でも、本堂の内部の梁(はり)などに色々な細工が施されています。ネズミ或いはウサギを正面から形取ったもの、中国の故事に由来したらしいもの、抽象的な表現、様々です。
文政年間に始まった西方寺の本堂の再建は、ずいぶん長引いたようです。建設から十年以上たっても完成していなかったといわれています。そのせいか、或いは落慶に間に合わなかったのか未完のまま終わった彫刻も多いように見えます。
日頃あまり気にしない本堂の彫刻ですが、いろいろなお寺を訪ね、聞法がてら、その意匠を見て回るのも面白味があると思います。
以来、この地で浄土真宗のみ教えを護ってきました。
現在の西方寺の本堂は、江戸時代の後期文政年間に建てられたものです。今から百八十年ほど前になります。当時の柳河は掘り割りの水も豊かで、たいそう美しい町でなかったかと思います。
西方寺の本堂は、よく見ると、向拝(ごはい)口をはじめ、柱の上部や梁(はり)など至る所に、細かな彫刻が施されています。どうやらこれは、柳河藩のお寺の特色のようです。
柳川市史編集委員会『柳川市の社寺建築Ⅰ・Ⅱ』という本があります。その中で、西方寺に関する記述で、「向拝(ごはい)周辺は柳河藩の特色ともいうべく大層に彫刻が多くて華やかさが際立つ。」とあります。向拝(ごはい)とは、本堂正面の入り口のことです。向拝の獅子飾り・龍飾りは、どこでも見かけることができますが、柳河藩のお寺は、それがたいそう華やかなもののようです。
この本には、さらに「向拝(ごはい)上端周辺彫刻は、江戸時代後期の柳河藩の彫刻技術の粋をあつめたものであろう。」とあります。本堂建築の時期も、江戸の技術が円熟した頃なのでしょう。
向拝以外でも、本堂の内部の梁(はり)などに色々な細工が施されています。ネズミ或いはウサギを正面から形取ったもの、中国の故事に由来したらしいもの、抽象的な表現、様々です。
文政年間に始まった西方寺の本堂の再建は、ずいぶん長引いたようです。建設から十年以上たっても完成していなかったといわれています。そのせいか、或いは落慶に間に合わなかったのか未完のまま終わった彫刻も多いように見えます。
日頃あまり気にしない本堂の彫刻ですが、いろいろなお寺を訪ね、聞法がてら、その意匠を見て回るのも面白味があると思います。
住所 |
〒832-0025 |
---|---|
アクセス情報 |
西鉄柳川駅から車で7分、徒歩17分 |
TEL |
0944-72-4522 |
FAX |
0944-74-4753 |
納骨堂 |
有り |
墓地 |
有り |
合同墓(合葬墓) |
有り |
駐車場 |
有り |
バリアフリー対応 |
無し |
主な行事や活動 |
『御正忌報恩講』は、親鸞聖人のご命日(一月十六日)にあたり、聖人のご苦労をしのびつつ如来様のご本願を聞かせていただく、浄土真宗の門徒にとって一番大切な法要です。西方寺では、一ヶ月引き上げて毎年十二月に十四日、十五日、十六日の三日間、午前は十時半から午後は一時から勤めています。 |
住職から一言 |
お寺には必ず誰かがいます。空になったり、昼間鍵がかがっているようなことはありません。 |